常福寺ライブより  平成十七年四月二日に行われた常福寺ライブの講演をまとめてみました。今年はドキュメンタリー映画で活躍される映画監督の原一男氏、評論や作家としてご活躍の吉武輝子氏、そして写真家の佐々木美智子氏にご講演頂きました。演題は例年通り『Memento Mori 死を想え』です。原監督は大切なお子さまを亡くされております。吉武氏は多くの病気や苦しみを乗り越えて来られました、また佐々木氏はアマゾンにての決死の体験をされております。毎回の事ながら答えの出る問題ではありませんが、それぞれの方の生きざまは生きることの意味合いを私達に考えさせてくれます。

 

「Memento mori 死を想え」

吉武 輝子 さん

よしたけ てるこさん 評論家・作家。31年兵庫県芦屋市生まれ。慶応義塾大学文学部卒。68年婦人公論読者賞受賞。

 今年72歳になりました。
63歳で俳句を始め、64で中央大学の非常勤講師、69で歌手デビュー、70でインターネットを飛ばし、72の今、ハンドベルを猛特訓中。
生きることの恩恵を、たっぷり享受しながら生きています。
 家から歩いて20秒の所に俳人の実妹が住んでいる。
妹が私に「家で句会を主催したい。輝子さんが入ってくれたら7人会が成立する。輝子さんは物を書く人だから、すばらしい俳句が作れると思うの」と言った。
いくつになっても、ほめられるとうれしいです。

 私は、膠原病のセーグレン症候群に、19年も仲良く付き合っています。
これは体液をつくれなくなる病気です。18年前に右の肺を取り、残った肺も半分以上が肺気腫で、本当に健康な肺は少ない。
階段、坂、だめです。駅まで10分の所が、私は20分以上かかります。
 その頃まだ50代でした。
休んでいると、人が追い抜いていく。人生の落後者になったような気がしている私に、妹が「俳句は見るから観るよ」と。
観察は立ち止まらないとできない。ひょっとしたら、これからは立ち止まりが人生の勝利かもね、と思いました。
 空を見ると、暑かった夏も秋の雲になっていました。「自然は空からくるんだ」と、しみじみ思いました。
 立ち止まって観るおかげで、地域に野良猫がいることに気が付きました。病気の猫、交通事故で死にそうな猫。気が付くと連れて帰っていました。
夫が亡くなった後も、猫という家族が8匹もいてくれるおかげで、私はその温もりの中で生きています。

 00年4月、夫が急死しました。それまで後ろからついてきた死が、くるっと前に回り、死が前から歩いてくるという感じになりました。
生きることがむなしくなり、死に対する恐怖心が強まりました。
 神経科の婦長をしている娘から電話がありました。「輝子さん、大丈夫?」と言うから、私は地獄の底から聞こえる声で「毎晩、疲れるまで散歩をしないと寝られないのよねぇー」と言うと娘は瞬間沈黙があって、すぐに透明な明るい声で「輝子さんは夜の散歩と言ってるけど、世の中の人は徘徊と言うのよ」と言いました。
 やっぱりその晩とぼとぼ歩いていたら、娘の明るい言葉がわぁーと胸の中に浮かび上がってきました。その瞬間、お腹を2つに折って、笑って泣いている自分がいたのです。
 人間は死ぬ時も一人、残されて生きるのも一人。死んだ人を悼むことは、残された人が豊かに生きることなのだと体で感じたのでした。  電話が鳴ると、私はどんなに心が暗くても一オクターブ高い声で受ける訓練をしました。
電話をかけてくる人は、人生のお荷物を背負っているわけです。私が愚痴ばかり言ったら、相手の人生の荷物がどんどん重くなっていくわけです。私たちは金持ちではなく、人持ちにならなければいけません。いやなことのおすそ分けはできるだけけちって、うれしいこと、楽しいことのおすそ分けは大盤振る舞いする。これしか人持ちになる方法はありません。


原  一男 さん

<はら かずおさん 映画監督。45年山口県生まれ。72年第1作「さようならCP」、87年「ゆきゆきて、神軍」では日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞などと国際的にも高い評価。>

 監督には2つのタイプがあり、私は作りたい映画を借金で作り、自分たちで配給するやり方で、30数年やっている。
 元々は写真家になりたかった。都立の肢体不自由児の学校で、子供の世話をする仕事をしていたが、その写真が審査にパスして、銀座のニコンサロンで個展をやった。個展に来た一人の女性が私に声を掛けた。「新潟大学を出て映画をやりたいが、一緒にやらないか」と。背が低く、声が高い美少女だったので、つい「いいよ」と言ってしまった。1作目を作ったことが縁で結婚。それ以来二人三脚で映画作りをしているわけだ。
 子供が2人生まれた。娘と息子。小学校に入った頃、2人に留守番させて地方に出かけることが多かった。親の大変さを子供が日常的に見ることで、親の生き方を言わなくてもわかるという思いがあった。
 その頃、熊井啓のチーフ助監督をしていた。ロケが終わり久しぶりに帰ると、娘と息子がテレビのアニメを見ていた。中1の息子に「剣道に行く時間だろ」と言うと、息子はしぶしぶ出かけた。
 たまっている仕事を片付けようと事務所に行くと、驚いたことに息子がテレビを見ていた。私はカーッとなった。何だ!と大声で怒鳴り、頬を1つ殴った。息子は剣道の道具を持って、泣きながら出て行った。
 息子は夜になっても帰ってこなかった。不安が募ってきた頃、警察から電話があった。タクシーですぐ行くと、少し血の付いた剣道の道具と靴とかばんが目に入った。「息子さんのものですね」と。
 通されたのが死体安置室。血の気が失せた。息子はビルのベランダから飛び降りたのだった。
 熊井監督の「深い河」で、インドのベナレスで40日間ロケしていた間、不思議なことがあった。町で牛と目が合った。しばらく見入られたように牛の目を見て、なぜか息子を思い出した。それが2回続けてあった。
 NHKの番組で「世界わが心の旅」に出演の話があった。牛と目が合った所にもう一度行きたかったので、ガンジスの源流を歩いて旅することになった。
 般若心経を唱えながら、杖をついてトコトコ歩いた。ガンジスの広くごうごうと流れる川のそばの道を歩いていた時、ふっと人の気配を感じた。だが振り向いても誰もいない。また人の気配がする。2回振り向いた時、息子がいると思った。思わず口に出して名前を呼んだ。そばにいる感じがした。息子が死んで10数年たつがその後1度もありません。
 ドキュメンタリーは人に隠している部分をえぐる業の深い仕事だ。人のつらい部分をえぐって、自分のつらい部分を隠すことはできないと考えた。息子が死んで1年くらいたった頃、息子の死をめぐってドキュメンタリーを作らなければと思った。死んだことを「お前は間違ったことをした」と責めたくはないが、死を肯定することはできない。
 息子が死ぬ瞬間に何を考えて、私に対して何を思ったか、解き明かしたい。亡くなった子供の永遠に解き明かせない謎だからこそ、そこに近づくことを、映画を作る中でやらなければいけないと思っている。


佐々木美智子 さん

<ささき みちこさん 34年北海道生まれ。日活撮影所を経てカメラマンに。その傍ら新宿でバー経営。79年ブラジルへ。アマゾンで飲食店など経営。88年サンパウロで私設図書館創立。93年帰国。>

 47歳でアマゾンに渡った。「黒いオルフェ」という映画を見て、いつか明るいブラジルのリオのカーニバルを見たいと思った。
 北海道で育った。太平洋から来た霧が私の体を通り抜けるたびに、絶望感に襲われて過ごしていた。昔は女性が働くとか、一人で都会に出るのは考えられない時代で、結婚という形で根室を出たが2年くらいで離婚し、東京に出た。
 母が「手に職をつけろ」といい、山野愛子さんの学校に行こうと思ったが、「私には向かない」と、入学式が終わると新宿に出てうろうろ歩いていたら、屋台の列があった。「私にぜひやらせて」と、3日間通い、21歳で屋台を始めた。客がいっぱい来て、9時には売り切れ、さっさと家に帰った。
 お客さんの紹介で日活に入ったが、派手な映画の世界になじめず、3年でやめ、一人でやれる仕事はないかと、写真学校に入った。
 新宿でバーをやりながら、お金をためて「いつか死ぬのね」という映画を作った。子供のころから体が弱く、何百回と気絶して、いつも絶望感で目がさめた。
 ある時から、死んでもあの世がある、と思うようになった。きちんと生きないと、親や親しい人に会った時に恥ずかしい思いをするからと、どんな状況でも頑張って生きてきた。
 2回死に損なったことがある。46歳の時ブラジルに行って、アマゾンに9年間暮らし、サンパウロで私設図書館を作った。
 友人とフグ鍋をした翌日、残りに肝を入れて食べたら、手の先からしびれてきた。死ぬと思った。たまたま机の上にあったプロポリスを2本、毒をあおるように飲み、遺書を書いた。感覚はないが意識だけあり、薬局で注射を打った。タクシーの運転手が牛乳を飲めというので2飲んだら、それまで出なかったのに吐いて下痢をした。
 ベッドに横たわり、何時間か意識がもうろうとしていたが、覚めた時とても後悔した。今までがむしゃらに生きてきたが、「自分らしく生きてきたのか」「本当にやりたいことをやってきたのか」と。自分を大事にすることで、周りの人を幸せに出来るのではないかと思った。
 がんになり、北海道で手術した。首に穴をあけ管を入れるというから「いやです」と。先生は「今退院したら死ぬよ」と言ったが、姉に来てもらい退院した。それまでは2カ月間カロリーの缶詰だけだったが、途中のすし屋で端から好きなものを全部食べた。もう思い残すことはないと思ったが、正月のごちそうを食べられない私に、姉が「かわいそうに」と情けなさそうな顔をした。私は「間違ったことをしている、こんなに心配をかけてどうする」と、病院に戻った。
 何か自分一人の力ではない誰かに助けられて、「まだ私にはやるべきことがある」と、最近は謙虚に思うようになった。
 困った時に発想転換して、面白くとか楽しく死のうと考えていたから、今日まで元気に生きて来られたのかと思う。
 また新宿でバーを始めた。ウイスキーなどなく、薬用酒ばかり。まだ2カ月しかたっていないが、病気になったら絶対治してあげるからと、変な励まし方ばかりして日々暮らしている。

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