「死を想え Memento mori」  なだ いなだ

 70過ぎるといつどこで何が起こるかわからない。毎日のように死のことを考えています。作家というのは

遺言のつもりで文章を書いているんですね。

 私が死のことを考えたのは小学5年の時でした。死んだらもう母親や父親、誰にも会えないと考えたら

夜寝床の中でおいおい泣き出したのです。母親がびっくりして何で泣いているのかと聞くので、「年をとら

ないで。おばあちゃんにならないで」と言うと、「お前が子どもを産んだら自動的におばあちゃんになるんだ

」と言う。「子どもを産んでもおばあちゃんにならないで」と叫んだことを覚えていますね。母親に笑われ、

長い間私を笑いの種につかうんです。私はずっとコンプレックスに思いました。

□  14、5歳で軍隊の幼年学校に入り、小銃と実弾100発持たされた。重かったです。「お国のために死

ねるかな」とよく考えたものです。

 私は「とりあえず主義」を名乗っています。人間はとりあえず生きている。「私はとりあえず医者をやって

る」と言うと患者さん、いやがるんですね。「私のこともとりあえず治療してるんですか」「とりあえずの薬で

すか」と聞くんで、「そうだよー。効くかどうか飲んでみなければわからないよー」と言うんです。今までどん

な薬でも10人全部に効いて副作用もなく治す薬はありません。ペニシリンだってペニシリンショックがある。

だからとりあえず「効く薬だよ」と言いながら、効かなかったら「でもあなたには効かなかったね。別の薬を

探してみようね」ということになるんです。効かないと悪口を言われる。信頼していたのに、と。「信頼しては

いけない」と私は言うわけです。自分の病気は自分で考えてもらいたい。でも残念ながらなかなかそう思っ

てもらえないですね。

□  死を考えることで人間の行動を変えさせます。黒澤明の「生きる」は、ガンを宣告された主人公が「おれ

は本当に生きてきたのか」と初めてとらわれる。死を考えることが初めて生き方に目を向けられるんですね。

 死は様々な問題を含みます。自殺は道連れの形で人を巻き込む場合もあります。

 死を恐れぬ人もいます。冒険をやる人――飛んだり岩を登ったり、スピードを出したり、勇気があると褒める

傾向がある。しかしそれは勇気とはちょっと違うのではないでしょうか。

 私も怖い経験をせざるを得ない場合があります。暴れているからちょっと来て下さい、と。ゆっくり時間をか

けて話をして信頼感を取り戻す。ほっとしますね。

□  先日あるおばあさんから相談があった。孫が早産で生まれ、大学教授に診てもらったら「正常には育

たん」と言われた。「奇跡は起こらないでしょうか。お百度を踏んでもいいから」と言うと、教授は「お百度踏も

うが奇跡は起こらん。この道の専門家の診たてに狂いはない」と言ったというのです。私はその教授に会っ

て「バカヤロー」と言ってやりたかったですね。

 人間は不幸に遭った時に自分を説得し現実を飲み込まなくてはいけない時があるが、飲み込むには時間

がかかる。死や運命は免れないが、受け止めるために時間が流れていく必要がある。流れさせるために、

昔からやってきたお百度は良い祈りの示し方なのです。そういう意味で宗教は長い伝統をもった現実の受

け入れ方なんだなあと思います。

 ………………………………  なだいなださん  精神科医、エッセイスト、小説家、評論家、73歳。

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