「死を想え Memento mori」  パネルディスカッション

上田 死んだ人に恥ずかしくない人生を送るというのは重要なのではないか。NHKの番組で高知の過疎の村

に行った時だ。先祖代々の棚田が荒れ果ててしまい、農協のある青年がここで野菜を作ろうと言った。その野菜

に名前を入れ直営所に出すと、買った人から電話がかかってきたりして村がどんどん活性化した。僕は80歳の

元郵便局長のおじいさんに、「一度は荒れ果てた田んぼがもう一度きれいに復活したのはご先祖様の供養にな

りますね」と言った途端、その方は「んーー」といったきりしゃべれなくなってしまった。

白石 ユーゴスラビアにいる親友から最初の空襲があった時電話がかかってきた。私は、「とにかく深呼吸しな

さい、腹式呼吸よ!」とそれしか言えなかった。彼女と同じマンションの家族は、子どもが隣家に遊びに行った時

爆弾が落ち母親一人生き残り、その3日後に戦争が終わった。残酷ですねー。私に出来るのはそういう世の中に

してはいけないこと、痛みを我が痛みとして生き続けることー。

山野井 僕が死んだらクヌギを1本植え、その木にカブトムシやスズメバチが集まればいいと常々思っている。

人間だけでなく昆虫や小動物もいとおしい。僕は十分生きたから。僕の命の代わりにこの苦しんでいるネズミを助

けて欲しいと思うことがよくある。

住職 仏教の教えでは対比を基本的に言わない。対比の中で自分を比べると、つまらぬと思い込んでしまう。私

は小さい時いじめられた。いやだったが、それがいろいろなことをわからせてくれる原因になり、私の人生の中で

はプラスになっている。

白石 東京の空襲で家の裏庭に爆弾が落ち、疎開して田舎の女学校に行った。運動場の真中に立たされ、ワーッ

と泣くとセレモニーは終わるが、私は泣かなかった。ニックネームは武蔵だった。リンチは1ヵ月続き、そのことに

私は堪えた。グループで人をいじめるな、戦う時は1対1で。偏屈なくらい私は何か言いたい時は一人でやる。責任

は私のところに返ってくる。

上田 母が離婚して勤めに行き、お手伝いさんと2人になると「ママと私とどっちが好き?」と聞く。「ママ」というとガ

ーンと蹴られて泣いている記憶がある。「おいしい」というと喜ぶので一口食べるごとに「おいしい」という子になって

いた。それが暴力だとは気が付かず、かわいがられることはうれしかった。それはそれからの僕の人格形成に暗い

影を落とした。一番近しい人にものすごく気に入られたいと―。デートで女の子が黙ると「ねえ、おこってない?」とか

「さっきの一言がいけなかったの?」と聞くと逆に怒られた。今となればいろいろ屈折した人の話が聞けたり、話を聞

いてくれてありがとうといわれ、役に立っている。人生の後半になるとどんな辛い事からでも学べる所があり、それが

人の個性だと思う。

山野井 僕は登るために生きている。今回凍傷で指を10本切断した。縫わずそのままという最新の方法で、消毒は

激痛だが、これは又面白い体験をしているなと思う。

上田 人の話を聞くことが大切だ。若者が自分の言うことを心から聞いてもらう体験があれば暴力をふるわないと思

う。私の心の声を聞き届けるとか、あなたの存在を聞くと言う意味での深いコミュニケーション量を増やしていくのは

重要だ。 (おわり)

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