「死を想え Memento mori」  「生きる理由」    佐野 三治(さのさんじ)

 91年油壺からグアム島のアップルハーバーまでヨットの太平洋横断レースがあり参加しました。

 私は22歳から27歳まで、加山雄三さんの光進丸のクルーとして乗っていた後、サラリーマンになりました。3年経

った頃、精神的に疲れ、もう一度海に出て星空を見たいと思ったのが動機です。

 このレースは14人の尊い命が失われた厳しいものでした。12月25日、「たか号」で出航。非常に海が荒れており

厳しさを肝に命じてのスタートでした。

 7〜9mとビル3階くらいの大きなうねりの中で木の葉のように海面を走っていたが、29日に転覆。7人のうち1人

はすでに溺死。6人が救命ボートで避難。寒さと恐怖心で歯が合わないほど震えた。船には500mリットルの水

1本とビスケット9枚、それにビニールシート一枚だった。5cm四方のビスケットは1日1枚を6等分、水は5、6滴を

飲むことにした。

 暗い夜の闇と狭さとのどの渇望感が6人を苦しめた。2畳ほどの所に車座に座り、交互に足を伸ばした。

 一週間くらい経つと幻覚幻聴が出る仲間もいた。ゴムの床には海水がたまり、お尻がまっ赤に擦れ、足は白くふ

やけた。ですから助けられた時にはお尻も足も皮がめくれ、その中に雑菌が入りパンパンの状態でした。

 背中には氷を背負っているような寒さがあった。ゴム一枚で海水ですから。1月8日にビスケットの最後の一枚を

みんなで食べた。翌9日、自衛隊の飛行機が、1時間後には海上保安庁の飛行機が通り過ぎた。

 これは見つけくれたに違いないと、救助される順番まで決めて待った。残っていた水も全部飲んだ。ところが昼に

なっても救援の船が来ない。その夜は今までの数日間に比べ異常に長く感じました。

 10日の朝、今まで歌を歌って励ましてくれた仲間の様子がおかしくなった。「死」という言葉は今まで一度も口に出

せなかったが、一番恐れていた死が待ったなしに襲ってきた。死に水も飲ませてあげられなくてと、仲間の口に涙

をつけた。

 翌11日、3人次々と亡くなり2人だけになった。ボートに止まった鳥を捕まえ、くちばしで肌を裂き食べた、うまかっ

た。口の中がセメダインをいれたようなベトベト状態だったので、鳥の胃の中でトロトロになった魚は非常に食べや

すかった。細胞の中にエネルギーが入っていく感じがした。

 生きて帰れたら何でもしようと思った。

 ついに僕1人になった。また鳥が止まり、捕まえた。バタバタと暴れ、鼓動が指先を通じ感じた。温もりがあった。生

きているのはオレとこいつだけだと思ったら殺せなくなり、一晩その鳥と暮らした。死んだので翌日食べたがおいしい

とは感じなかった。ただ、生きて帰るんだと思い食べた。―もうどうにでもなれと思い目をつぶり膝小僧を抱えている

と、耳元で第九のような音楽がガンガン鳴り自分の体がスーッと上がっていった。海原が下に見えた。幻覚幻聴だっ

たのでしょう。その頃から自分の尿を飲めるようになった。

 1月25日夕方横になると船の音が聞こえた。幻聴かと思ったが外を見ると貨物船がいて、救助されました。

 病院ではあー助かった、生きてたんだと喜びがあったが、時間と共に、どうしてオレだけ生きて帰って来ちゃったの

かと気持ちがふさぎ込んだ。体はどんどん良くなる反面、精神的に落ち込んだ。

 その時助けてくれたのが医師、看護婦や両親、兄弟、友人でした。愛情に引っ張り上げられて、自分の事を皆様

の前で話すことができるようになりました。その時頂戴した本の中に「食べ物は肉体の糧である。愛は心の糧である」

とありました。その時の私はまさしくその通りでした。漂流した27日間―その後に出会った人たちからいただいた心

の救いを忘れることはできません。    (おわり)

佐野 三治さん

60年生まれ、91年12月29日、外洋ヨットレース「グアム・レース」にて遭難転覆。漂流の末、奇跡的に救助される。

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