「死を想え Memento mori」  上田 紀行(うえだ のりゆき)

 日本で最初にいやしという言葉を言い出した一人です。当時大学院を出たての30歳位だった。今は

何でもいやし…と言うが、いやしは一生の中で3回位いうものです。

 乃木坂で生まれた。父は文学を志していたが、乃木坂の数百坪の土地を祖父に内緒で売り払い、

それが発覚して勘当されその後、家に帰ってこなかった。母は俳優座の演劇の助手をやっていたが、

離婚して翻訳家として私を育ててくれた。

 母は大変強い人で、私は十代の後半で耐えられなくなった。完全に洗脳され、母に従属して何も無い

自分がいやになり、二十歳の時に家族が解散することになった。私はいじいじとして生きる元気がなく、

母のせいだと家でぐずぐずしていたら、母がじゃあ私が出て行くといってニューヨークのマンハッタンに移住

してしまい、もう誰のせいにもできなくなった。母がいなくなりハッピーになるかと思ったが、やることが見つ

からずカウンセリングに通った。

 大きかったのはインドや世界各地を旅行して人間にはこんなに沢山の生き方があると知ったことだった。

バリ島では毎日神様にお供えすることで、心豊かになる。スリランカでは病人は村祭りで治す。人間が元

気になるのはお金、学校の成績、肩書きではないと思った。それからいやしという言葉を使うようになった。

日本はこんな豊かなのに何で精神的に「生きている!」という感じを抱かせない人が多いのか。

 人間はひたすら我々を取り囲む環境を克服しようとする。時間や空間の拘束からいかに自由になるかが、

今までの文明が行ってきたものだ。火は暗いところを明るくするという場所の拘束を解放し、電車は空間や

時間から解放した。

 今の文明は他人にいかに迷惑をかけないかという方向に進んできた。でも昔はどこかに行くには隣のおば

ちゃんに子どもを預けるなど、他人に迷惑をかけなければいけない文化があった。隣のおばちゃんもそれが

迷惑かというと喜びだったりもした。今は周りの人との繋がりがブチブチ切れていく。どんどん便利になり、

周りの人も巻き込まずお金さえあれば一人で何でも出来るという時に、「何で私がここにいるのかわからな

い、一体私は誰?」となる。

 今教育は50点より80点の方がいいという教育をやっている。絵を描いていた方が生き生きとして才能も

発揮する子を塾に押し込む。点数が上がった頃には生きる元気を失って、何をやったらよいか分からない

子が生まれる。なお悪いことに昔は点数を上げて良い企業にいけば幸せになったが、今は違う。それでも

点数をあげようとする。やりたくないことをやらせて命の灯を消してはいけない。

 文明は時間・空間を克服しようと便利になってきた。でもそれは本当に我々が自由になって命の灯を燃や

していけることを目指した。ところがそれをやりすぎてしまい、ここまでくれば本当に生きること死ぬことを考

える時期になっているにも拘らず、収入増やせとか点数取れと言い続けている。そろそろ考えた方がよいの

ではないでしょうか。

 ホスピスの先生が「命があと1年という時何をやりますか」と言った。思うことがあればむしろ今始めても

いいのではないでしょうか。始められることが豊かさに繋がると思います。 (おわり)

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