「死を想え Memento mori」 ありふれた日常の 瞬間の積み重ねに価値   上野 創(うえの はじめ)

26歳でがんと診断された。抗がん剤のつらい治療の中、外泊で気持ちを回復。一時は危険な時もあった

が、このままでは死なないという確信が内側からこみ上げてきた。

死を思うは生を思うこと

告 知

 私は97年11月にがんと診断されました。当時26歳で朝日新聞の記者になり4年位の時で、事件記者

でした。

 その頃左の睾丸が少しずつ大きくなり何だか変だなと思いました。少し疲れやすいがこんな生活してい

れば当然だろうと、それ位にしか思わなかった。会社の検診で泌尿器科に行くようにいわれた。その時

まで自分ががんだということは全く予想もしてませんでした。

 医者が私の方をじっと見て、しゅようができてます、残念ながら悪性です、と言った。私はその時初めて

「悪性しゅようということですか」と聞き返した。医者はそうです、と言い少し黙った。「それはがんというこ

とですか」と、がんという言葉が私の内側から出てきた。先生はそうです、と言った。それが私の告知だっ

た。私の場合その告知の仕方は良かったと思います。あなたはがんです、といきなり言われたら印象は

全然違っていたでしょう。

転 移

 病気との戦いが始まりました。その時撮ったレントゲンは肺全体が真っ白で、睾丸からの転移ということ

でした。あした入院してあさって手術と言われ、頭がボーッとして何だか夢の中にいるようだった。さっき

までの人生と今自分に起きていることが一致しなかった。電話で支局のデスクが、「お前後輩に留守番さ

せてどこで何やってる」、といきなり怒鳴った。ああこの声はさっきまで自分がいた現実の世界から来てる

な、自分はもうそこには帰れないんだな、と思った。もしかして自分は試されているのかなと思った。がん

だと言われこの後どう行動するかと。

結 婚

 当時私には交際している女性がいました。手術が終わった直後、彼女が結婚しようといきなり言った。

私はすごく驚いた。自分と結婚してこの人の将来はどうなのかという他人事のような気持ちと、自分は結

婚して大丈夫なのかという主観的な迷いがあった。「とにかく結婚しよう、いやなのか」「いやじゃない」と

いう話になり結婚した。入院と入籍がほとんど同時でした。

闘 病

 強い薬をたくさん入れ、副作用には苦しい思いをしました。体はむくむし、一挙に病人のようになりまし

た。

 最初の薬は効いてないと言われました。非常に厳しいと言われた時が闘病の中で一番つらかった時

だった。その夜は妻と一緒にベッドで泣きました。

 入院中気持ちを一番回復させたのは外泊でした。親や皆で食事をする。病気とは関係ない話をしたり

研修医の文句を言ったりしながら、外泊中はいつも笑っていた。不思議なものでもう治療したくないと思

いきや、次の治療に耐えて必ず元気になろうと又病院に戻りました。

 2回目の治療から薬が効いて少しずつ数値が良くなったが、何度か続けると下がりきらない段階がき

た。通常の3倍の薬を使うことになり無菌室に入った。更に、自分の肝細胞を一時採っておき、投与の後

に戻すという最先端の治療をやった。副作用は4倍出た。具合が悪すぎてベッドからほとんど出られず、

部屋の狭さなどどうでもよかった。

「大丈夫、大丈夫」

 無菌室に入ったものの肺炎から肺水腫になり熱が41度を越え、今夜が山ですという所までいった。その

時いろんな体験をした。つらかったはずの体が楽になる、視界がぼやけて時間が止まったような感じがし

て、このまますっといったら楽だろうなと。これに委ねようという時、このままでは自分は死なないという確

信が内側からこみ上げてきて、医者や家族に大丈夫大丈夫と言っていたそうです。現実にどんどん元気に

なり退院しました。

霧に包まれた意識

 闘病中つらかったもう一つは、うつ病のようになったことでした。薬は効いているし、がん細胞は減ってい

るし退院できるかもしれない、こんな状態の時にどうして気分が落ち込むのか分からなかった。自分は、生

きてる意味・価値がないのでは、もう、ろくな仕事も出来ないと、とりつかれたようだった。プラス思考で考

えれば何とかなるというものではなく、何か霧に包まれたようだった。どうしたら楽に死ねるかばかり考えて

いました。  どうやってそこから抜け出したかというと、自分が死んだ姿を家族が発見したところを何度も想

像することで、自殺の考えをかなぐり捨てるように振り切った。後で思うと、どうしてそんなに死にたいと思っ

たかわからないですね。

紙面連載へ

 元気になり職場に復帰した1年後、再発しました。右の肺を5分の1切り取った。抗がん剤と退院を繰り

返している時、いつ手術不能、もしくは治らないといってもおかしくない、じゃあどうしようかということになり

、自分の体験を何かの形で残したいと思いました。

 入院中新聞を一生懸命読んだわけですが、あまり胸に響いてくる記事がなかったんですね。金融危機

とか不良債権問題は大切なことだが、がんと闘っている自分には全く心に響いてこない、もっと違うもの

が読みたいと思いました。

 一番胸に響いたのが『声欄』と家庭面の『ひととき』でした。いろんな人生がそこに凝縮されていて、同

じ時代を生きる人の肉声が伝わってきた。新聞記者が書く記事は第三者性が強く、言葉に親しみ、温か

さが感じられませんでした。

 自分の言葉でつづってみたいと思いました。紙面を私物化するわけで、失敗したらどうしようという気持

ちがあったが、2度も再発を繰り返してこの先どうなるかわからない、格好つけてもしょうがないと書いたの

が、00年10月からの「がんと向き合って」という連載だった。1年間続き、反響が1500通あった。その中

から何人かに取材させてもらい、紙面を通していろんなコミュニケーションをさせていただいた。これはいず

れ本になる予定です。

日常性と命、実感

 私は長野にいて松本サリン事件や水蒸気爆発を担当しました。他人の死は接していたが、自分や自分

の周りの人の死は本気で考えたことはなかった。自分がいつか死ぬ、もしかしたら半年後に死ぬという立

場になった時、何を一番強烈に思ったかというと、いかにありふれた日常が価値あるかでした。花を眺める

という瞬間瞬間の積み重ねがどんなに価値あって、生きてる自分にとって大切なものか、それは死を意識

しなければわかりませんでした。

 その時以来、花は花として味わいたい、風は風として感じたいと意識するようになりました。百年前の人

間も自分が生きるか死ぬかで悩んだろうし、今晩のおかずで悩んだろう――そうやって人間は日常性と自

分の命を揺れながらやってきたじゃないかと考えると、私も同じようなことをしていると安心しました。つまら

ないことで悩んだり、ちょっとした悪事をしながら、でも一つの人生を全うした人が山のようにいて、それで

今があるんだろうと意識するようになったのです。

 死を思うは生を思うこと。目をそらしたり気づかれずに生きるのではなく、死と一度向き合った上でじゃあ

どうやって生きようかというところで充実した豊かな時間を重ねていければいいんじゃないかというのが今

私の思っていることです。

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 上野 創(はじめ)さん  朝日新聞記者、朝日新聞神奈川版に「がんと向き合って」を連載。31歳

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