「Memento mori 死 を 想 え 」 について

 20世紀最大の戦争第2次世界大戦で日本は敗戦し壊滅的な被害と打撃を受けたが、

跡的とも思える繁栄をなしJapan as No 1とまで言わしめる経済大国になった。

 しかし現在日本の経済はデフレスパイラルなどと命名され行き先の

見えない状況に追い込まれている。

 10年程まえから事件に特殊性が叫ばれているような気がする。

それは、見た目に凶悪で残忍だと思えるものが多いいが、

それと共になにか理解出来ない暗い部分を私達に思わせる様な気がする。

また、そう言う事件には、必ず精神科医や、心理学者のコメントが添えられるようになってきた。

 私は、社会が心理学者や精神科の医師にコメントを求めるようになったことの方が気になる。

西洋医学が解剖の元、内蔵の位置を確認していった。

結果、私達は、みぞみちの下あた りを摩りながら、「胃がどうももたれて」と会話する。

本来全く支障の無い人は、「胃」を意識するだろうか。

ましてや内蔵の位置関係を知らない子供はどうだろうか。

 私達が、心理学者や精神科医に頼ると言うことはどう言うことであろうか。

 やはり10年程前から、私は勝手に「水洗トイレ文化」と現状を命名してきた。

即ち、汚いものや、不快な物は目の前から排除し、流し捨ててしまい、綺麗な心地よい物だけを

の前に並べてそれを一つの目標とし良きものとする風潮です。

身近なものに対する全体性の欠如だと思う。

私らの子供の頃は、トイレはくみ取り式で、

その汚物をくみ取り野壺に運ぶのは子供の役目でした。

そしてそれを堆肥や水肥にして野菜を作り食料としていました。

 その、流されてしまった、疎まれて来た、最も大きな物が、「死」だと思う。

 医学の進歩により、天から授かったこの「命」を、私達は医者の手に委ねられたような

錯覚に陥っている。確かに多くの命が救われ医学は私達に多くの光明を与えてきた。

しかし如何しがたいこの「命」の灯火を、理解するには余りにも医学は理屈的すぎる。

 生死事大無常迅速 光陰可惜 時不待人

 禅は生を「生死」と一括りとし、座禅を持って自身を追い込み、そして生き三昧として

今にこの命を輝かせ、そして受入れようとしたのだと思う。

 本来、死は生に内蔵されしいるもの、総ての生物は生を受けた瞬間に死を約束される。

私達は、心の奥底に、その事を感じながら、排除してきた。いや、その事を感じるからこそ排除してきた。

結果、全体性の中でバランスを保ってきた「心」が、文明の力により排除された「死」により、

バランスを崩し何かの不快感を感じた結果、社会は風潮として、 心理学、精神科医への

判断を乞うという、心理的、精神的な不安定感の表象を顕す形になったのでは無いのだろうか。

「Memento mori 死を想え」 今だからこそ必要ではないだろうか。

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