平成14年4月6日・講演会記録
平成14年4月6日開催
なだいなださんの講演
70過ぎるといつどこで何が起こるかわからない。毎日のように死のことを考えています。作家というのは遺言のつもりで文章を書いているんですね。
私が死のことを考えたのは小学5年の時でした。死んだらもう母親や父親、誰にも会えないと考えたら夜寝床の中でおいおい泣き出したのです。母親がびっくりして何で泣いているのかと聞くので、「年をとらないで。おばあちゃんにならないで」と言うと、「お前が子どもを産んだら自動的におばあちゃんになるんだ」と言う。「子どもを産んでもおばあちゃんにならないで」と叫んだことを覚えていますね。母親に笑われ、長い間私を笑いの種につかうんです。私はずっとコンプレックスに思いました。
14、5歳で軍隊の幼年学校に入り、小銃と実弾100発持たされた。重かったです。「お国のために死ねるかな」とよく考えたものです。
私は「とりあえず主義」を名乗っています。人間はとりあえず生きている。「私はとりあえず医者をやってる」と言うと患者さん、いやがるんですね。「私のこともとりあえず治療してるんですか」「とりあえずの薬ですか」と聞くんで、「そうだよー。効くかどうか飲んでみなければわからないよー」と言うんです。今までどんな薬でも10人全部に効いて副作用もなく治す薬はありません。ペニシリンだってペニシリンショックがある。だからとりあえず「効く薬だよ」と言いながら、効かなかったら「でもあなたには効かなかったね。別の薬を探してみようね」ということになるんです。効かないと悪口を言われる。信頼していたのに、と。「信頼してはいけない」と私は言うわけです。自分の病気は自分で考えてもらいたい。でも残念ながらなかなかそう思ってもらえないですね。
死を考えることで人間の行動を変えさせます。黒澤明の「生きる」は、ガンを宣告された主人公が「おれは本当に生きてきたのか」と初めてとらわれる。死を考えることが初めて生き方に目を向けられるんですね。死は様々な問題を含みます。自殺は道連れの形で人を巻き込む場合もあります。
死を恐れぬ人もいます。冒険をやる人――飛んだり岩を登ったり、スピードを出したり、勇気があると褒める傾向がある。しかしそれは勇気とはちょっと違うのではないでしょうか。
私も怖い経験をせざるを得ない場合があります。暴れているからちょっと来て下さい、と。ゆっくり時間をかけて話をして信頼感を取り戻す。ほっとしますね。
先日あるおばあさんから相談があった。孫が早産で生まれ、大学教授に診てもらったら「正常には育たん」と言われた。「奇跡は起こらないでしょうか。お百度を踏んでもいいから」と言うと、教授は「お百度踏もうが奇跡は起こらん。この道の専門家の診たてに狂いはない」と言ったというのです。私はその教授に会って「バカヤロー」と言ってやりたかったですね。人間は不幸に遭った時に自分を説得し現実を飲み込まなくてはいけない時があるが、飲み込むには時間がかかる。死や運命は免れないが、受け止めるために時間が流れていく必要がある。流れさせるために、昔からやってきたお百度は良い祈りの示し方なのです。そういう意味で宗教は長い伝統をもった現実の受け入れ方なんだなあと思います。
なだいなださん:精神科医、エッセイスト、小説家、評論家、73歳(当時)
太田治子さんの講演
今でも太宰治の子どもといわれるのは寂しいですね。ああ、この年になってもまだそういう肩書が付いて回るのか、と。
母が死んで17年たちます。私は母の子として母一人の手で育てられた誇りがある。父は一小説家として人間の弱さ優しさをこんなにもはっきり書いた人はいないと尊敬するが、一人の人間としていかがなものかと思う所があります。でも好きな人です。
私は明治学院大学の英文科でグレアムグリーンというカソリックの作家と出会った。その「21の短編」の中の「双子」――テレパシーでお互いの気持ちがわかる二人だったが、最期の死の瞬間はわからなかった。――双子であっても母と娘、どんなに愛し合っても孤独なんだと母が死んだ時感じました。私はこの世で母を一番愛してた。実は今もそうではないでしょうか。娘が10歳の時から何でも話しました。かつては母と話すことで、今は娘と話すことで救われるんですね。娘に母のことを話せるようになったのは15年以上の月日が流れたからかもしれません。年月が一番癒してくれるんですね。
母は34歳で未婚の母で私を産みました。倉庫会社の食堂で賄いをして女手一つで私を大学に入れてくれた。妻子がいる人の子を産んだことを母は罪深く思い反省はしていたが、その一方で、人道には背いたが天道には背かなかったといった。好きな人の子を生み育てる、自分の心に偽らず自分がいったん信じた道を貫いた母を私は誇りに思っています。
69歳で肝臓がんで母は死にました。私が中学一年の時骨折して輸血が原因でC型肝炎になったが気がつかなかった。我慢強い人でしたが、だるそうに横になっていたこともあった。入院した時、正直私はほっとした。慢性肝炎なら死ぬような病気と思わなかったから、こういう形で別居できたのは大いなる喜びだった。父は私が7カ月の時空に逝った。母一人子一人でずっと大きくなった。母は私に出て行きなさいと言ったが、私も母と一緒に居たかったし母も私と暮らすことが一番心安らぐことでした。
手術を薦めたのは私でした。母は医者の娘でしたが、手術をしたら私はアウトよ、と言った。医者からは手術をしなければあと2年といわれた。なぜ手術を薦めたかというとそれは母の体を思うより私の自己愛でした。死をいつも間近に感じている母を見る自信がなかった。怖かった。増々縁が遠ざかる、いやだなと思った。もちろん母には元気になってほしかった。
「手術は失敗だった」が母の最期の一言でした。子どもの時のように母の手を握り続けた。母と一緒なのだと安らぎのようなものを感じた不思議な2週間でした。母が死んだ時、母と生きてきた私は死んだという感じでした。母の死を認めたくない気持ちがあり、お骨を叔父の家に納骨の日まで預かってもらった。母と私はお互い寝顔を見るのが恥ずかしいと本棚を衝立がわりにしていたが、死んでも3年間とることができなかった。母が生きていた時のままに部屋の中をすることで、心のバランスをとっていました。
一週間に一度お墓に行き声に出して報告しました。母がマリア様であり神様になったんですね。人間は死んでも一緒に生きている、その気持ちで救われ支えられます。死を想うことは愛を想うこと、これからも母と共に生きていきたいと思います
太田治子さん:小説家、父は太宰治、主な著書に「母の万年筆」「天使と悪魔」など。54歳。
上野創さんの講演
26歳でがんと診断された。抗がん剤のつらい治療の中、外泊で気持ちを回復。一時は危険な時もあったが、このままでは死なないという確信が内側からこみ上げてきた。死を思うは生を思うこと
告 知
私は97年11月にがんと診断されました。当時26歳で朝日新聞の記者になり4年位の時で、事件記者でした。その頃左の睾丸が少しずつ大きくなり何だか変だなと思いました。少し疲れやすいがこんな生活していれば当然だろうと、それ位にしか思わなかった。会社の検診で泌尿器科に行くようにいわれた。その時まで自分ががんだということは全く予想もしてませんでした。
医者が私の方をじっと見て、しゅようができてます、残念ながら悪性です、と言った。私はその時初めて「悪性しゅようということですか」と聞き返した。医者はそうです、と言い少し黙った。「それはがんということですか」と、がんという言葉が私の内側から出てきた。先生はそうです、と言った。それが私の告知だった。私の場合その告知の仕方は良かったと思います。あなたはがんです、といきなり言われたら印象は全然違っていたでしょう。
転 移
病気との戦いが始まりました。その時撮ったレントゲンは肺全体が真っ白で、睾丸からの転移ということでした。あした入院してあさって手術と言われ、頭がボーッとして何だか夢の中にいるようだった。さっきまでの人生と今自分に起きていることが一致しなかった。電話で支局のデスクが、「お前後輩に留守番させてどこで何やってる」、といきなり怒鳴った。ああこの声はさっきまで自分がいた現実の世界から来てるな、自分はもうそこには帰れないんだな、と思った。もしかして自分は試されているのかなと思った。がんだと言われこの後どう行動するかと。
結 婚
当時私には交際している女性がいました。手術が終わった直後、彼女が結婚しようといきなり言った。私はすごく驚いた。自分と結婚してこの人の将来はどうなのかという他人事のような気持ちと、自分は結婚して大丈夫なのかという主観的な迷いがあった。「とにかく結婚しよう、いやなのか」「いやじゃない」という話になり結婚した。入院と入籍がほとんど同時でした。
闘 病
強い薬をたくさん入れ、副作用には苦しい思いをしました。体はむくむし、一挙に病人のようになりました。最初の薬は効いてないと言われました。非常に厳しいと言われた時が闘病の中で一番つらかった時だった。その夜は妻と一緒にベッドで泣きました。入院中気持ちを一番回復させたのは外泊でした。親や皆で食事をする。病気とは関係ない話をしたり研修医の文句を言ったりしながら、外泊中はいつも笑っていた。不思議なものでもう治療したくないと思いきや、次の治療に耐えて必ず元気になろうと又病院に戻りました。
2回目の治療から薬が効いて少しずつ数値が良くなったが、何度か続けると下がりきらない段階がきた。通常の3倍の薬を使うことになり無菌室に入った。更に、自分の肝細胞を一時採っておき、投与の後に戻すという最先端の治療をやった。副作用は4倍出た。具合が悪すぎてベッドからほとんど出られず、部屋の狭さなどどうでもよかった。
「大丈夫、大丈夫」
無菌室に入ったものの肺炎から肺水腫になり熱が41度を越え、今夜が山ですという所までいった。その時いろんな体験をした。つらかったはずの体が楽になる、視界がぼやけて時間が止まったような感じがして、このまますっといったら楽だろうなと。これに委ねようという時、このままでは自分は死なないという確信が内側からこみ上げてきて、医者や家族に大丈夫大丈夫と言っていたそうです。現実にどんどん元気になり退院しました。
霧に包まれた意識
闘病中つらかったもう一つは、うつ病のようになったことでした。薬は効いているし、がん細胞は減っているし退院できるかもしれない、こんな状態の時にどうして気分が落ち込むのか分からなかった。自分は、生きてる意味・価値がないのでは、もう、ろくな仕事も出来ないと、とりつかれたようだった。プラス思考で考えれば何とかなるというものではなく、何か霧に包まれたようだった。どうしたら楽に死ねるかばかり考えていました。どうやってそこから抜け出したかというと、自分が死んだ姿を家族が発見したところを何度も想像することで、自殺の考えをかなぐり捨てるように振り切った。後で思うと、どうしてそんなに死にたいと思ったかわからないですね。
紙面連載へ
元気になり職場に復帰した1年後、再発しました。右の肺を5分の1切り取った。抗がん剤と退院を繰り返している時、いつ手術不能、もしくは治らないといってもおかしくない、じゃあどうしようかということになり、自分の体験を何かの形で残したいと思いました。入院中新聞を一生懸命読んだわけですが、あまり胸に響いてくる記事がなかったんですね。金融危機とか不良債権問題は大切なことだが、がんと闘っている自分には全く心に響いてこない、もっと違うものが読みたいと思いました。
一番胸に響いたのが『声欄』と家庭面の『ひととき』でした。いろんな人生がそこに凝縮されていて、同じ時代を生きる人の肉声が伝わってきた。新聞記者が書く記事は第三者性が強く、言葉に親しみ、温かさが感じられませんでした。
自分の言葉でつづってみたいと思いました。紙面を私物化するわけで、失敗したらどうしようという気持ちがあったが、2度も再発を繰り返してこの先どうなるかわからない、格好つけてもしょうがないと書いたのが、00年10月からの「がんと向き合って」という連載だった。1年間続き、反響が1500通あった。その中から何人かに取材させてもらい、紙面を通していろんなコミュニケーションをさせていただいた。これはいずれ本になる予定です。
日常性と命、実感
私は長野にいて松本サリン事件や水蒸気爆発を担当しました。他人の死は接していたが、自分や自分の周りの人の死は本気で考えたことはなかった。自分がいつか死ぬ、もしかしたら半年後に死ぬという立場になった時、何を一番強烈に思ったかというと、いかにありふれた日常が価値あるかでした。花を眺めるという瞬間瞬間の積み重ねがどんなに価値あって、生きてる自分にとって大切なものか、それは死を意識しなければわかりませんでした。
その時以来、花は花として味わいたい、風は風として感じたいと意識するようになりました。百年前の人間も自分が生きるか死ぬかで悩んだろうし、今晩のおかずで悩んだろう――そうやって人間は日常性と自分の命を揺れながらやってきたじゃないかと考えると、私も同じようなことをしていると安心しました。つまらないことで悩んだり、ちょっとした悪事をしながら、でも一つの人生を全うした人が山のようにいて、それで今があるんだろうと意識するようになったのです。
死を思うは生を思うこと。目をそらしたり気づかれずに生きるのではなく、死と一度向き合った上でじゃあどうやって生きようかというところで充実した豊かな時間を重ねていければいいんじゃないかというのが今私の思っていることです。
上野創(はじめ)さん:朝日新聞記者、朝日新聞神奈川版に「がんと向き合って」を連載。31歳(当時)