臨済宗本鏡山
常福寺

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令和6年4月6日開催・講演記録

目次

 

松尾貴史さんの講演

 

 

石井麻木さんの講演

 

 

奥泉光さんの講演

 

松尾貴士さんの講演

死は、地球上の億人全員に確実に訪れる現象です。死も生のうち。生はずっと続くプロセスです。プロセス全体が生であり、終わりの瞬間を死と呼ぶだけなので、生と死は反対語ではないような気がします。どう死ぬかは、どう生を締めくくるかですから、どう生きるかにも通じます。
「信じる」と「疑う」を対比する人がいますが、疑うは結論を導き出すためのプロセスで、信じるは結論です。だから結論とプロセスを対比語にすることはおかしい。信じるの反対は、信じないです。信じるは美しいと思われがちですが、情報を吟味することなく信じるという結論に飛びつくのは、ものすごく楽でだめなことです。なぜ信じるに足るかの情報を、吟味しなければいけません。疑うことが大事。猜疑心ではなく健全な懐疑精神があるべきです。何を信じ何を信じないかは、疑うプロセスが必ずなければいけません。
赤ちゃんがお母さんに全幅の信頼を置くのは全く別の話で、これは生存本能です。生まれたての赤ちゃんは快と不快しかありません。だから泣くかうれしそうな顔をするかだけですが、楽しい、面白い、お腹いっぱいというようないい気持ちのことがだんだん分かれてきます。脳の中にセロトニンという幸福感を味合わせてくれる物質が分泌され、安心して眠るのです。赤ちゃんが輝いて見えるのは、その後の選択肢が多いからです。歯が丈夫で何でも食べられることも選択肢です。私が今からアスリートを目指すのはもう無理です。年をとるに従って選択肢が減り、輝きを失っていくのは悲しいことです。ではどうしたらいいでしょう。死に向かっていくときに、選択肢が増えるような何かをし続けること。読書だったり人と話したり経験だったり。どんな選択をしても生きているうちが花というか、生きていなければいけません。命が大事だから。さきほど住職の言葉に、肉体は借り物でそこに命をどう繋ぐかという話がありました。私は無宗教だから肉体と霊魂を分けて考えることはしませんが、生きることは何なのかという定義は難しく、毎日生活に追われている中でいちいち哲学してはいられません。だから分けてイメージすることで、ありがたいと感謝し、悲しいことがあれば手を合わせることを自然にできる、これがこの国の文化なのかもしれません。
子どもの頃はオカルトが大好きで、小学生の頃には幽霊の話を聞くのが好きでした。中学1年の時、ライターの中岡俊哉さんが「狐狗狸さんの秘密」という本を書きました。コックリさんとは降霊術、占いの一つで、とてもはやりました。元々は明
治時代の頃、井上円了が研究し、筋肉の微細な運動で起きるもので、霊がきているわけではないと解説しています。情緒が不安定になる人が続出し、学校で禁止になったら、今度はキューピットさんが流行り、そんなことが大好きになりました。現実頭皮型だったんですね。 神戸の三宮のアパートに住んでいました。両親は留守が多く、夜遅くまで仕事をしていました。一人っ子だったので、テレビのチャンネル権は全部持っていました。余計勉強をしなくなり、父が一計を案じて、チャンネルの回す部分を教育テレビに合わせて引っこ抜いて持っていく。僕はペンチで回してバラエティ番組を見ていました。それが父に見つかり、今度はコンセントのプラグを切って持っていく。僕は道具箱の中にあったプラグをねじ回しで開けて中の電極に導線をさしてテレビを見ました。繰り返していたらだんだんコードが短くなりコンセントに届かなくなりました。
勉強が嫌いで、学校では先生に怒られ、家では成績が下がったと怒られ、現実逃避のためにオカルトに走りました。この世の中には僕を点数や見た感じで判断するのでなく、人知を超えた存在や霊界、四次元、守護霊がいて、きっと自分のために何かしてくれる、だから何かを信じることは明るい未来に繋がると思っていました。 中岡俊哉にはもう一つ「恐怖の心霊写真集」がありますが、ただの錯覚やトリックだったと後に気がつきました。疑うことは面倒くさいことですから、疑うをすっ飛ばして信じたい結論に飛びついて信じたいことを信じる、僕も長らくそういう子どもでした。
お化けや幽霊、霊魂の話が大好きで、現実逃避で生きてきましたが、34歳の時初めて子どもができ、この子の責任を俺が負わなければならないのかと思っていろんなことをシュミレーションするうちに、一切その手のものを信じなくなりました。それまでは信じる本ばかり読んでいましたが、疑う本を読むようになりました。
科学ライターとして有名なアメリカの数学者マーティン・ガードナーの「奇妙な論理」という本があります。お化けや空飛ぶ円盤に対して客観的な物の見方をわかりやすく書いているだけですが、目からうろこが落ちるどころか、がれきが落ちるぐらいの勢いで読みあさり、そういうものを一切信じなくなったのと同時に、人間は死んだらなぜお墓を作ったりお経を上げてもらったり葬式をやったりするんだろうと、いろんなことを考えるようになりました。
夏目漱石の孫の夏目房之助さんと対談したときに、なぜ葬式をやると思いますかと聞くと、あれは生き残った人たちへのセラピーですよと。その人に対する感謝を持ち続け、お墓参りに行き、思い出話をしてその人が生きていたことを伝えていくことが大事。忙しくすることが日常に早く戻るためのセラピーで、葬儀の段取りで忙しくすることが生きている人のためのものだと分かりました。
死後の世界がある、と実際にイメージしてしまうと、命がおろそかになるような気がします。若い人で自死する人の中に、ゲーム感覚というか、リセットできると思わせている何かがあり、死に対するハードルが低くなっていると思います。
大事なのは、命はかけがえのない一番大切なものだとイメージし続けて、他人の命も尊重すること。他人の命を尊重するのなら、自分の命が一番大事に決まっています。人殺しは罪深いが、被害者の遺族は犯人を恨むことができます。憎むという歪んだセラピーだけど、自死されてしまうと、その人を守りたかった人たちは自分を責め続け、やり場のない辛い状況を死ぬまで背負っていかなければなりません。だから人殺しより自殺の方がよほど罪深いと僕は解釈しています。
日本は長い間戦争をし、後悔し反省して二度とそういう道には行かないと言いました。三木内閣の頃、宮澤喜一さんはポケットに日本国憲法の本を入れている方でしたが、今の総理大臣はどんどん軍拡に向かい、人を殺す武器を輸出してもいいように閣議決定。憲法をないがしろにして、日本人が攻撃されかねない要素をあちこちにばらまいています。
自然なものから作られた香りは好きです。香りは大きな力を発揮し、イメージも広がります。香りを嗅いだだけでワーッ懐かしい!と。視覚は遺伝子の受容体が4つ。五感の中で一番後にできた感覚です。味覚の受容体は36。香りの情報は桁違いに多く、嗅覚の遺伝子の受容体は1960もあります。
父は7年前に亡くなり、病院には最後4カ月ほどいました。父は古いジャズが好きだったのでジャズのCDを持って行きましたが、嫌がりました。食べる楽しみはなく、誤嚥性肺炎になってはいけないと、水も飲ませてもらえません。水分は全部点滴や管から。お風呂に入れるわけでも、誰かがマッサージしてくれるわけでもなく、触覚による快適もありません。昔の映画が大好きでしたが、DVDを見ようともしません。
楽しみが何もないと思ったときに、父についていた看護師のような方が、「はい、この痰をちゃんと吸引できたらご褒美をあげますから」と。何だろうと横で見ていたら、バラの香水を父の脈のあたりに付けました。父は見たこともないようなうれしそうな顔をしてうっとりしているんです。結局選択肢がなくなったときに、楽しみは香りなんだと実感しました。
 私は下北沢でスパイスカレーの店をやっています。香りが命です。店の名前の「般○ 若」(ぱんにゃ)はインドの昔の言葉で、知恵という意味です。下北沢にはカレー専門店が50~60店あり、私の店は古株の方です。皆違って皆いいと、下北沢は多様性の権化のような街で、同業者同士、皆仲がいいです。道が狭いので車が走り回らない、そぞろ歩きで店に入れます。駅周辺に信号がなく安心して歩行者が楽しめる街です。下北沢に自分の拠点がある、店があることは誇らしく思います。

松尾貴史(まつおたかし):俳優・コラムニスト。1960年、神戸出身。人面を折り紙で表現する折り紙作家。日本ソムリエ協会名誉ソムリエ。下北沢のカレー店「般○若」(ぱんにゃ)店主。
舞台出演作に「桜の園」 、「斑鳩の王子 戯史・聖徳太子伝」 。
「ザ・空気ver.2 誰も書いてはならぬ」⒅で第26回読売演劇大賞優秀男優賞、「鴎外の怪談」 で第56回紀伊國屋演劇賞個人賞、第29回読売演劇大賞優秀男優賞をダブル受賞。
著書に「東京くねくね」「違和感のススメ」他。
https://matsuo.live/

石井麻木さんの講演

写真を始めて22年になります。最初に身近に死を意識したのは8歳の時で、松田優作さんでした。父が松田優作さんの家を設計したこともあって、家族ぐるみで仲良くしていただきました。まだ死を認識してなかった松田家の次男に、笑顔で、お父さんいつ帰ってくるのと聞かれたのを覚えています。
 身内では14歳の時に大好きだった絵描きの祖父が亡くなったのが最初でした。泣いて泣きはらしてー。赤いセーターを着た祖父の絵を描いたのを覚えています。翌年に可愛がっていた犬がー。一晩中抱きしめ、温もりがまだ残っています。
 1995年の阪神淡路大震災の時はまだ子どもだったので何もできず、2004年の中越地震で初めて自らの意思で被災地に足を踏み入れ、その頃から被災地という場所に足を運ぶようになりました。人生で最も大きな転機とも言える出来事、風景、人に出会ったのが、09年に訪れたカンボジアの地雷原でした。タイとの国境近くの、国の手も地雷撤去も入らない奥地の町です。子どもたちが学校に通う道や井戸の周り、庭、畑など生活する場、至る所に地雷が埋まっていました。
 地雷被害に遭った人々の自立支援をしたいとNPOを立ち上げ、オーガニックコットン畑にするために4ヘクタールの土地を購入。まず地雷探知機で地雷を撤去するところから始め、そこから2つの地雷が見つかりました。小さな2つだけど、起こりえたかもしれない悲しみを2つ減らせたと思うと、大きな2つだと思いました。
 足や手をなくした人は、仕事も住む場所もなく、地雷原で暮らすしか選択肢がありませんでした。すべて彼らの手でオーガニックコットンを育て、綿を収穫。織って出来たマフラーやタオルを日本で売り、収益を届ける活動を09年から8年間続けました。17回ほど地雷原に足を運びました。彼らは、私が出会った時は一家心中を考えるほど苦しい状態でしたが、活動を通して尊厳を取り戻してくれたのがとてもうれしかったです。
 子どもたちは常に死と隣り合せの日々の中、たくましく笑いながら生きていました。カメラを向けると、はみ出すぐらいの笑顔で寄ってきてくれて。無邪気な姿に感銘を受け、出来ることは何でもしたいと思う出会いでした。本当に必要なもの以外は何もなく、身一つと段ボール一枚だけ。唯一ある学校には紙もペンもなく、何もなくても木1本で遊べることを教えてもらいました。
 カンボジアの地雷原を行き来しているときに東日本大震災が起き、明日の生活も苦しい中、村中で集めた8万円の義援金を託してくれました。彼らの年収が7万円で、その額を超える金額です。直接福島の避難所に届けました。
 3月11日は、東京の会場で12日から始まるカンボジアの地雷原を伝える写真展の設営をしていました。揺れで展示作品が全部落ち、写真展は中止にして、すぐに物資を集めて東北に向かいました。3月11日の東日本大震災、これが人生を大きく変えた2つ目の出来事でした。  物資を届けたい一心で避難所に向かいました。こういう場所ではカメラは暴力になってしまうので写すつもりはありませんでしたが、避難していた人から「写してこの状況を全国に伝えてほしい」という声をいただき、写させてもらうことになりました。その言葉がなかったら、写すことはなかったと思います。
 現実とは思えないような光景が広がる中を、郵便屋さんが一人ひとり名前を呼びながら探し出して届けていた姿が目に焼き付いています。避難所に入れず、外の駐車場の軽トラックで丸1カ月、着の身着のままお風呂にも入れずに過ごしていた方が、「家も写真も全部流されてしまったけど、今日から新しい一歩を踏み出すために最初の一枚を写してくれませんか」と声を掛けてくれ、写真はそういう役目もできると思わせてくれました。
 避難所に入れなかった人たちのために、子どもたちが作った段ボールの「皆の家」。4人まで入れます、と書いてあります。こういう小さな優しさや、「頑張りすぎずに」という手書きの文字に、救われる場面もありました。
 地震や津波で亡くなった方の話もたくさん伺いました。仮設住宅を転々とする中で病気が悪化し、亡くなってしまった方や家族。お墓に避難しますと言って自ら死を選択した方。仮設住宅で亡くなっていたおばあちゃんは翌日の新聞に、たった3文字で孤独死と載っていて。せっかく生かされた命を自ら終えてしまうまで追い詰められ、悲しく苦しく寂しかったりしたことがやりきれなくて。止められない悲しみは止められないかもしれないけど、もし止められる悲しみがあるのなら止めたいー。
「月命日にひとりでいたくない」という声を聞いて、会いに行くだけでもいい、いることなら出来ると思って13年間毎月11日、東北に通っています。
 避難所で会ったひとりのおばあちゃんが大事そうに一枚のしわくちゃの写真を握りしめていました。たわいもない家族写真ですが、その時の会話や家族の愛情や思い出がその一枚に全部詰まっていると思いました。おばあちゃんは、「バラバラになってしまったけど皆そこにいるんだよ」と言って、泣きながら笑いながら見せてくれました。
 私にとって音楽はなくてはならないものです。復興住宅でも避難所でも、音楽があったから乗り越えられた、生きようと思えたという声をたくさん聞きました。石巻、大船渡、宮古にライブハウスを皆で作り、音楽イベントも開けるようになり、クリスマスも毎年東北にいられるようにしています。サプライズでケーキを持って復興住宅に行くことも。仮設住宅に月命日にお邪魔するときは、大道芸やマッサージ、ネイルや歌など、できる人ができることを持ち寄って過ごします。震災遺児や孤児と一緒に遊んだり。写真は写さず、ただ手を握って話を聞いて過ごすことも。
 双葉町は10年間誰も暮らせなかった町で、今は元の人口の3%が戻りました。除染してない場所は幼稚園も保育園も小学校も未だに入れません。カレンダーも黒板も今この瞬間もこのまま。散らばったままの靴やランドセル、子どもたちの手に戻ることはありません。10歳の子どもたちは一昨年成人を迎え、どこの町で過ごしているかはわからないけど、笑って成人式を迎えてくれたらいいなと願っています。ずっと人が暮らせなかった時間、それでも木々は生い茂り、鳥は飛び、誰にも見られなくても桜は満開に咲きます。
 13年間通い続ける中で、東北中にただいま、おかえりを交わせる家族が増えました。いってらっしゃいと送り出したまま、おかえりと抱きしめてあげられなかったお母さんお父さんがいて、いってきますと言って飛び出したまま、ただいまと言えなかった子どもたちがいて。当たり前のようで当たり前でない何気ない会話を交わせる幸せを改めて感じ、本のタイトルに。赤ちゃんだった子が中学生になり、小学生だった子が成人式を迎えたのを見届けて、あの日を知らない子どもたちにも繋いでいきたいと、写真絵本『ただいま、おかえり。3.11からのあのこたち』を出しました。収益は全額あしなが育英会に寄付しています。 
16年に熊本地震が起き、発災4日後に向かいました。まだ余震が激しい時期で、壊れてしまった光景を目の当たりにして、その中でも花や鳥、懸命に生きる命を感じる度に無意識に写していました。毎年1月17日は神戸で過ごします。同じ痛みを抱えた大先輩に教わることがいっぱいあります。
 能登には3週間後に入り、先週までに4回お邪魔しています。現地の方が「もう能登は見捨てられている」と口々に言うのが無理ないと思うほど、3カ月たった今も手つかずの場所がたくさんあります。風化の速度だけが早く、ボランティアの数も少ないと言います。国や行政の対応が遅すぎたこともあるけど、無関心の人が多くて、もう過去のことになっているのが悲しい―と。来てくれるだけでも、関心を持ってもらえるだけでも、話を聞いてもらえるだけでも救われると言っていました。
 写すことは今でも抵抗があり、風景ですら悲しくて写せないことがあります。火災で一面焼け野原になってしまった朝市通りは、苦しすぎて数枚しかシャッターを切れませんでした。断水もまだ続いていて4月に復旧といっていたけど、夏になりそうとのこと。命の危険を感じます。
 内灘町は液状化で地面が波打ち、平衡感覚を失うほどでした。人の気配もなく、唯一会えた子どもたちは希望の光だと思いました。2週間前、珠洲市に行きました。地震だけでなく津波の被害も大きく、復興どころか復旧すらまだ始まってない状況です。それなのに支援物資は3月末で締め切られ、憤りを感じます。現地のことを知っていたら、そういうことにはならないはず。仮設住宅が150棟やっとできて、抽選で順番待ちです。
 東北で過ごしてきた13年間を思うと、大切だった人たちの悲しみがあまりにも大きく、話を聞かせてもらうだけでも崩れ落ちそうになり、心が折れそうになります。当たり前だと思い、空気みたいに必要だった存在。大きすぎる喪失感。何年たっても受け止められない現実。卒業式や入学式、誕生日などの節目で、本当にいないと実感せざるを得ない、でも信じたくないという繰り返しの日々を過ごされています。
 心に大きく開いた穴はその人自身だから塞がなくていい、塞ぐ必要がないと聞いて、その穴と共に生きていこうと思いました。心の奥にある誰にも触れられない宝物のような思い出や記憶、交わした会話、声、表情、確かにそこに一瞬でもあった永遠が何とか夜を越えさせ、心を保たせていると思います。
 悲しみの深さは比べられるものではなくて、皆誰かしら悲しみや傷や痛みを抱えながら精一杯立っていることを日々感じながら過ごしています。

石井麻木(いしいまき):写真家。東京都生まれ。写真は写心。一瞬を永遠に変えてゆく。ことばと写真の連載、CDジャケットや書籍、映画のスチール、ライブ撮影やアーティスト写真などを手がける。東日本大震災直後から東北に通い、現地の状況を写し続けている。書籍の収益は全額寄付をしている。
著書 「3.11からの手紙/音の声」(14)、増補改修版(17)、写真絵本「ただいま、おかえり。3.11からのあのこたち」(23)
http://ishiimaki.com/

奥泉光さんの講演

 今日あたり桜が満開ですが、20代の半ばに井の頭公園で、桜ってなんて美しいんだろうと生まれて初めて思いました。ちょうど雨が上がって、なんだか冷え冷えしていて。坂口安吾の「桜の森の満開の下」のような幻想的な感じがして、もうすぐ自分は死ぬのかな、などと柄にもなく思ったのを覚えています。
 小説の中には、死がたくさん出てきます。私自身も描いています。物語の中で死は消費されるものとして登場する。映画やテレビドラマでも人がたくさん死にますが、あそこで一人ひとりの死についていちいち考えていたら物語は見ていられません。物語の中での死は消費されるものとして登場する。
 悲しい話にしてもそうです。死は涙を誘う道具として使われる。例えば特攻隊と女学生のような話ですね。死が物語の中で利用され消費されていく。
 死は厳粛なものですが、物語の中では笑いの対象にすらなります。例えば友人である作家の小森健太朗くんの「大相撲殺人事件」。外国人力士と、相撲部屋の親方の娘の二人が相撲界に起こる様々な事件を解決していくミステリーなんですが、力士同士が立合った途端に爆死したりする。これは笑うしかありません。死を笑いの対象として読者は享受する。
 しかし単なる物語の要素として使われる場合以外でも、小説では死がたくさん描かれます。
それはなぜかというと、小説の一つの役割として、人間の生き様を描くということがあるわけですが、人生を完結したものとして描くために、終点である死が描かれる必要があるからです。
例えば夏目漱石の「こころ」は、『先生』が書いた遺書を大学生の『私』が読むという構成ですが、その時点で先生の人生がすでに終わり完結しているのが大きなポイントです。
 死とは何かを書いた作品もありますが、数は多くない。むしろ生の終点としての死が小説では描かれることが多い。その意味では、多くの小説は生の方に力点がある。
 もう一つ、生を断ち切るものとしての死があります。私はアジア太平洋戦争を題材にした小説を幾つも書いています。戦争の中で無意味に死んだ人々、補給計画のないままに前線に送り込まれ、悲惨な状況の中で死んだ人々。アジア太平洋戦争では病死や餓死が圧倒的に多いのです。それはずさんな作戦のせいでそういう形になった。あるいは航空戦力の援護ないまま、沈められるとわかっていながら出撃した戦艦大和。そうした形で亡くなった方々に想像力を働かせ、言葉を遺すことないままに亡くなった人々の声を再現したい、魂を慰めたいという気持ち、それが小説を書く動機になっています。
 同じ方向で書かれた代表的な作品が澤地久枝さんの「記録ミッドウエー海戦」でしょう。
昭和17年の戦闘で亡くなった戦死者3418人の遺族――日本人だけでなく米国人を含め、追跡調査して、記録として残したものです。ものすごい執念と魂のこもった仕事です。
 私の作品も紹介すれば、芥川賞をとった「石の来歴」はアジア太平洋戦争の戦場を書いた作品で、その後の長編の「神器―軍艦『福原』殺人事件」、「グランド・ミステリー」も同じです。
「グランド・ミステリー」は、戦時に人が次々死んでいく中で、一人の人間の死の謎を追うことにどんな意味があるのか、大量死の時代に一人ひとりの死はどういう意味を持つのかをテーマとしました。
 という次第で、近代小説は、生を無惨に断ち切るものとしての死を大きなテーマにしてきました。断ち切られた生を、あるいは人生を終点としての死を描く小説家は、その意味で、生の世界に関心の中心があるといえると思います。
 変な言い方ですが、作家は死なないというイメージが私にはあります。私は大江健三郎から強い影響を受けています。大江さんが亡くなったときに、追悼文を書いてくれと言われて、しかし書くことがないと気が付きました。大江さんとは個人的な交流はありませんでした。対談もしたことがない。だけど大江さんの小説は読んでいるし、強く影響は受けている、私にとって大江健三郎は、小説を通じて付き合ってきただけで、その意味では夏目漱石とあまり変わらないと気が付きました。
 つまり大江健三郎が生きていても死んでいても自分にとっては同じだったと気が付きました。もちろん亡くなると新しい小説は出ませんが、小説というテキストと付き合ってきたので、極端なことをいうと、生身の大江さんはどうでもいいわけです。
 ちょっと余談ですが、大江さんと唯一関わりがあったのは、文学賞を通じてです。私が候補者で大江さんが選考委員だった。私は芥川賞や三島由紀夫賞の候補になって、芥川賞は4回目でとりました。三島由紀夫賞は3回候補になったがとれなかった。7回中6回はとれていないんですが、その全部で大江さんは選考委員で、私は大江さんから1回も評価されたことがありませんでした(笑)。いま私は芥川賞の選考委員していますが、作家が一生懸命に書いたものに優劣を付けるっていうのは、そもそも嬉しいもんじゃありません。
 古井由吉は5年くらい前に亡くなったんですが、古井さんの追悼文は書けました。古井さんとは何度か対談したし、交流がありました。だから個人的な思い出を書けた。それでも私にとって古井由吉もまたテキストの中に濃厚に生きている作家です。
 作家は生死にかかわらず、気配として小説世界に漂っています。大江さんも古井さんもそこにいるわけです。だから極端にいえば、生きていても死んでいてもいいのです。漱石は今も私にとっては生きています。作品というテキストに漂う作者の気配として漱石の存在は感じられる。
 大江健三郎の最後から2番目の小説「水死」を紹介しましょう。主人公はほぼ作者とおぼしき人物です。太平洋戦争の末期に主人公の父親が川にボートで漕ぎ出し、流されて死んだ、そのお父さんの死の謎を軸に据えた小説です。
 非常に簡単にまとめれば、死者が深い森に上がっていくイメージと、あふれる水の中へ沈んでいく死者のイメージ、この二つの死のイメージが最後に重ね合わせられ、きわめてポエティックな印象を織りなして小説は閉じられます。それだけだったら、なるほど、人生の完結としての死のイメージを美しく描いて、大江さんは作家の仕事を終えていくんだなと思って読むことになる。ところが、それと平行して、山の中で演劇を作る話がもう一つの筋としてあります。主人公と一緒に芝居を作ろうとしている女性は、昔文部省にいたおじさんにレイプされたことがあり、そのおじさんを劇場に来させて、彼を糾弾しようとするという、ものすごくエグい話が展開される。
 森と水が一つになって、人生の完成としての死のイメージをポエティックに描くーー。それでいいんじゃないかと思うけど、大江さんはそれじゃいやなんですね。そこにポエティックなものとは正反対の世界を叩き込みます。
 死を完結した何かとして詩的に描くことを大江さんは選択しないんだな、むしろ今この時代に生きる我々が直面している喫緊の問題を、無理矢理にでもぶち込んだなと、納得させられる。故郷である四国の森の世界をポエティックに描いて作家人生が終わってもいいはずなのに、それを完全否定するわけですよ。ポエティックなものとは正反対の世界を小説に入れ込んでいくわけです。ここに大江さんの作家魂があります。
 今現在我々が考えなければいけない問題を無理矢理小説世界に取り込んで、その結果、小説世界が瓦解してもかまわない、破壊されてもかまわない。我々が生きる世界にとって大事な問題をぶち込んでいくのだ、というわけです。さすがだなーと。たしかにそれが小説というものだと思います。
 小説家に死はありません。小説家は、小説を書くときに最も生命力を燃焼させている。私もそうでありたいし、そうだと思いたい。人間は死んだらどうなるか。宗教はもちろん、さまざまな捉え方、考え方がありますが、人が最も生命力を燃焼させた場所に、その人の魂が留まるという感覚は、一つの自然な感覚だと思います。小説家にとってその場所は、自分が書いたテキストです。人間には誰しもそれぞれにそうした場所があるはずです。その意味で、己の生命力を燃焼させるものを持てることは、幸せなことだし、人生を充実させることにつながる。それを発見していくことが人の生にとっては何よりも重要ではないか。
 皆さんにもそれぞれの魂の居場所があるはずです。自分が死んだ後、最も生き生きと生命力を燃焼させた場所、そこに私たちは生き続けることができるのではないかと思います。

奥泉光(おくいずみひかる):1956年山形生まれ。 国際基督教大学教養学部卒、同大学院博士課程前期課程修了。趣味でジャズフルートを吹く。
受賞歴
「ノヴァーリスの引用」(93)で野間文芸新人賞、瞠目反文学賞、「石の来歴」(94)で芥川賞、「神器ー軍艦『福原』殺人事件」で野間文芸賞、「東京自叙伝」(14)で谷崎潤一郎賞、「雪の階」(18)で毎日出版大賞、柴田錬三郎を受賞。
主な作品
「『吾輩は猫である』殺人事件」「新・地底旅行」「シューマンの指」「浪漫的な行軍の記録」「ビビビ・ビ・バップ」「死神の棋譜」など。