平成13年4月8日開催・講演会記録
養老孟司さんの講演
私は20歳から37年間東大で解剖をやってました。ある時思い立って辞めた。外へ出たらびっくりしました。世の中こんなに明るかったのか、と。辞める時に2年先輩の教授から、「ここは我慢会だからな」と言われた。日本の勤めは我慢会なのですね。一番我慢した人が一番偉いのです。学校の卒業証書もそうです。ちゃんと年数だけ辛抱できた証明書なのです。
2年経って初めてまた東大に行った。おれ確かにここに勤めていたことあるなーと思った。まさに前世の感覚なのです。福沢諭吉は「一身にして二世を得る」、つまり一つの体だけど二つの時代を生きた、と言っています。昔の仲間が昔通りのことを話すのを聞いていると、自分が二人いてその中に入っていく自分と入っていない自分がいる。周りも辛抱していると、我慢会だけが人生じゃないとなかなか気がつかない。辞めた瞬間に世界が明るくなったのは、そういった辛抱が全部消えたからであります。
よく外国に虫捕りに行きます。すると、教授が虫捕りに行ってテレビに出ている、といって事務に怒られる。出張届は出ているが虫捕りするとかテレビに出るとかは書いてないと怒るのですね。それを詰めていくと、出張先でどこに泊まって……と全部報告するのかなと思っていた。そしたら最近段々それに近くなってきた。国家公務員倫理法ができましたね。
解剖させていただく方は生前約束してあり、亡くなったらいつでも引き取りに伺う。元旦の時もありました。埼玉県の病院で、婦長さんがあわてて「元旦に最初にエレベーターを降りてきたのが死人では病院では具合が悪い」という。非常階段は箱が長くて相当な技術がいるのですよ。ある団地では、棺がエレベーターに入らない。仕方ないから今まで寝ていた方に立っていただいた(笑)。この建物は人が死ぬことを考えないで作ったと思いました。要するにある時から人は死ななくなったというのが私の感じです。予測と制御というか、予めこうなるというルートに沿って今やることを調整する。その典型がロボットとミサイルです。
で、人間はそうか、と私は聞きたい。死ぬまで何をするか決まっていない。それが生きるということですが、現代生活では定年になったらどうするか、とかかなり前から準備している。そういう生き方を見ていると、ひょっとしてあの人はロボットに生まれた方が幸せだったのでは、と思うのです。
人は変わります。自分が何10年か生きてきた世界が前世に思えるのは素直な感覚です。どうして前世かというと色が付いていない。今私が生きている世界はものすごく明るい。ちょっと生活を変えてみると色付きだとと思っていた世界が実は白黒だったことに気がつく。その感覚が日本は特に強い。それを補強しているのが世間です。自分より周囲の考えに従って行動する。私は官僚の世界で長いこと我慢会をやったお陰で、腹の底は違っていても表面は合わせられる癖がついた(笑)。
私は小学校2年で終戦で、戦前の教育がポッチリ入っている。大人は食い物の始末で大騒動で、子どもは放って置かれた。こんなに子どもらしく育った世代はない。次の世代は50代前半、全共闘です。戦後の典型的な民主主義教育を受けた。正義感が強い一方殺人が多い。
40代以下で典型的なのは上祐さん。全く意味のないことをダーと言える。今の新聞は大事なことを言わないために一生懸命いろんなことを言う。もし本音を一言でも言うと大騒動ですから今は。学者にも目立ちますね。
世の中が違った人達によって作られると多分違ってくるでしょう。違ってきた世界を見たいような気もするし大して見たくないような気もします。
養老 孟司さん:1937年生まれ。鎌倉市出身。東大医学部卒。解剖学者。北里大学教授。「唯脳論」「からだの見方」など著書多数。
佐野三次さんの講演
91年油壺からグアム島のアップルハーバーまでヨットの太平洋横断レースがあり参加しました。私は22歳から27歳まで、加山雄三さんの光進丸のクルーとして乗っていた後、サラリーマンになりました。3年経った頃、精神的に疲れ、もう一度海に出て星空を見たいと思ったのが動機です。
このレースは14人の尊い命が失われた厳しいものでした。12月25日、「たか号」で出航。非常に海が荒れており厳しさを肝に命じてのスタートでした。7~9mとビル3階くらいの大きなうねりの中で木の葉のように海面を走っていたが、29日に転覆。7人のうち1人はすでに溺死。6人が救命ボートで避難。寒さと恐怖心で歯が合わないほど震えた。船には500mリットルの水1本とビスケット9枚、それにビニールシート一枚だった。5cm四方のビスケットは1日1枚を6等分、水は5、6滴を飲むことにした。
暗い夜の闇と狭さとのどの渇望感が6人を苦しめた。2畳ほどの所に車座に座り、交互に足を伸ばした。一週間くらい経つと幻覚幻聴が出る仲間もいた。ゴムの床には海水がたまり、お尻がまっ赤に擦れ、足は白くふやけた。ですから助けられた時にはお尻も足も皮がめくれ、その中に雑菌が入りパンパンの状態でした。背中には氷を背負っているような寒さがあった。ゴム一枚で海水ですから。1月8日にビスケットの最後の一枚をみんなで食べた。翌9日、自衛隊の飛行機が、1時間後には海上保安庁の飛行機が通り過ぎた。
これは見つけくれたに違いないと、救助される順番まで決めて待った。残っていた水も全部飲んだ。ところが昼になっても救援の船が来ない。その夜は今までの数日間に比べ異常に長く感じました。
10日の朝、今まで歌を歌って励ましてくれた仲間の様子がおかしくなった。「死」という言葉は今まで一度も口に出せなかったが、一番恐れていた死が待ったなしに襲ってきた。死に水も飲ませてあげられなくてと、仲間の口に涙をつけた。
翌11日、3人次々と亡くなり2人だけになった。ボートに止まった鳥を捕まえ、くちばしで肌を裂き食べた、うまかった。口の中がセメダインをいれたようなベトベト状態だったので、鳥の胃の中でトロトロになった魚は非常に食べやすかった。細胞の中にエネルギーが入っていく感じがした。
生きて帰れたら何でもしようと思った。
ついに僕1人になった。また鳥が止まり、捕まえた。バタバタと暴れ、鼓動が指先を通じ感じた。温もりがあった。生きているのはオレとこいつだけだと思ったら殺せなくなり、一晩その鳥と暮らした。死んだので翌日食べたがおいしいとは感じなかった。ただ、生きて帰るんだと思い食べた。―もうどうにでもなれと思い目をつぶり膝小僧を抱えていると、耳元で第九のような音楽がガンガン鳴り自分の体がスーッと上がっていった。海原が下に見えた。幻覚幻聴だったのでしょう。その頃から自分の尿を飲めるようになった。
1月25日夕方横になると船の音が聞こえた。幻聴かと思ったが外を見ると貨物船がいて、救助されました。
病院ではあー助かった、生きてたんだと喜びがあったが、時間と共に、どうしてオレだけ生きて帰って来ちゃったのかと気持ちがふさぎ込んだ。体はどんどん良くなる反面、精神的に落ち込んだ。
その時助けてくれたのが医師、看護婦や両親、兄弟、友人でした。愛情に引っ張り上げられて、自分の事を皆様の前で話すことができるようになりました。その時頂戴した本の中に「食べ物は肉体の糧である。愛は心の糧である」とありました。その時の私はまさしくその通りでした。漂流した27日間―その後に出会った人たちからいただいた心の救いを忘れることはできません。
佐野三治さん:60年生まれ、91年12月29日、外洋ヨットレース「グアム・レース」にて遭難転覆。漂流の末、奇跡的に救助される。
さかもと未明さんの講演
父は普段はとても良い父だが酔うと母を殴る蹴ると酒乱の癖があった。母は辛いからいつもムカムカしたような顔をしている。
子ども達は喋れない分、ぜんそく、偏頭痛、登校拒否などで自己主張しました。女性の自立が私位の世代からはやってきた。これからの女性は働いていろいろな事をやればいいとか、女性の新しい生き様が開かれると、とても良い事のように母から聞いた。私自身も母の苦労する姿を見てきて、ごく普通にお嫁さんになり子どもを産むことに夢がもてませんでした。
大学は行かなくていいと随分もめ、土下座させられた。絵が好きで本当は美大に行きたかったが、「すぐ現金になるような勤めをして普通に子どもを産んで」といわれ、英文科に行った。絵を描きたい衝動を抑えきれず、親が言う通りに生きられないことへの葛藤があった。とりあえず就職したが、その頃から神経症状が出てきた。親からは「甘えだ、困る」とお金を出してもらえず保険証を取り上げられた。ひどい拒食症で38kgになりショック症状で動けなくなり会社を辞めました。
家には帰れないしお金は無いし、赤坂見附の連絡通路で半日泣いていた。うつ病の薬を飲んでいたので、ギリギリの判断力がある所で考えた。このまま働けないのなら死んでしまおうか、それとも徹底して自分のやりたかった道をやろうかと。
私は若い時から周りに人が死ぬという体験をいっぱいしている。親や周りの人は丈夫な時は「遊んでばかり」と怒るが、死んでしまうと生きてさえいてくれればと。
結局五体満足のうちに出来るだけのことをしよう、小さい時から思っていた漫画家になろう、とその時突然決めた。生まれ変わったように頑張り始めました。
3年位は持ち込んでは出版社に断られ、睡眠不足で倒れることを繰り返した。水商売をちょっとやっていた時にボーイフレンドが僕のお嫁さんになって漫画をかけばと言ってくれた。彼のご両親が本当に優しい人で、私は家庭がこんなに明るく幸せなものだと初めて知りました。
3年後デビュー。どんどん仕事も来て主人の年収を越えるとうまくいかなくなった。やっぱり僕のお嫁さんはごく普通に僕の後ろについてきてほしいと。それで家を出ました。その時にご両親が家の養女になってもいいから出て行かないで、と言ってくれたのが本当にうれしかった。人の気持ちの温かみに触れた時、私は本当に最初の漫画がかけたのです。フワーと自分が変わったなという体験をしたのです。当たり前の小さな事が大きく人生を変えていく。心を込めて毎日生きなければ、と思いました。
今は女性に優しい時代といわれるが、父親は娘に普通の結婚を望み、母親はそれと同時にただ家庭の中で終わってほしくないと思う。男性は自分の為に奥さんが家で帰りを待っていてと思う。現実の感情問題と女性の自立が拮抗して若い女の子は悩んでいます。
かといえば専業主婦の人はそれを誇れないでいる。寂しいことです。外に出て働くことだけが、女性の自立ではない事をまず女性が気がつかなければいけない。私が多少自立しているように見えたとしても、やっている事は大根刻んでいるのと同じなのです。
心を伝えるというのは時間をかけて。大根刻んだり箸の持ち方はどうだとバカバカしいことを毎日言ってあげないと人間は育たない。この事を大多数の人が忘れようとしています。
人生は不自由、病気、暴力、戦いなどを引き受けてうまく付き合っていく。悪いものをどうやって皆で乗り越えようかと、女の人は一歩引いてちょっと我慢することでもっと豊かな物を作るかもしれない。男の人もそういう女の人を認めてあげて頂きたいです。
さかもと未明さん:漫画家。レディースコミック誌を中心に10数本の連載を抱える売れっ子作家。鋭い心理描写とダイナミックな描線、そしてユーモアのあるせりふ運びに定評がある。「ゆるゆる」「まんがギリシャ神話、神と人間たち」など。